『一人制審判では何かを犠牲にして何かを得ようとしてはならない。一番大切なのは全てのプレーを見ることだ』
これは私が審判をしていて師匠に口酸っぱく言われたフレーズである。
私の審判の師匠は当時60歳を越したおじいさんだ。
野球経験はせがれの学童野球のお手伝いだけ。
22歳で審判の見習いを始めた私からしたら
『こんなおじいさんで大丈夫か…』
そう思えた。
しかしどうだろう。
グランドに立つと師匠は化け物だ。
自信に満ち溢れた佇まい、60代とは思えない機敏な動き、どこから出てるのか不思議な程の大きな声、正確なジャッジ。
私の第一印象を見事に覆してくれた。
師匠は『選手に楽しんでもらえる試合』をモットーに審判をしている。
少しでも長いイニングができるよう、攻守交代の時は「早く早く!」と選手を急かす。
選手からしたら良い迷惑だが、結果限られた時間内で最終回まで終わらせる。
基本的に草野球のグランドは2時間制。
ウォーミングアップ、グランド整備を含めたら試合時間は1時間40分弱。
7回(最終回)まで終わる試合は半数にも届かない。
しかし師匠はほとんどの試合で7イニングを終わらせる。
試合テンポが早いと9イニングまでさせるのだから驚きだ。
プロ野球の9イニング平均時間が3時間08分なのに対し、1時間40分で9イニング終わらせるのがどれだけ凄いかご理解頂けるだろう。
試合前の整列ではマネージャーを呼び
「良い写真が撮れるからこっちおいで」
このように皆を喜ばせる事が大好きだ。
そんな師匠だからファンは多い。
師匠の評判は良く耳にするが、どのチームも師匠に審判をもう一度してほしいと言っている。
そんな師匠だ。
審判技術も一級品であるし、選手を納得させる技術も同じく一級品だ。
冒頭でも書いた
『一人制審判では何かを犠牲にして何かを得ようとしてはならない。一番大切なのは全てのプレーを見ることだ』
このフレーズが物語っている。
私が担当した試合を師匠が見ていたときのプレー。
一人制審判での出来事である。
ノーアウトランナー2塁、一塁線をやぶる痛烈なライト線へのヒット。
2塁走者は悠々ホームに生還。
バッターランナーは快速をとばし2塁を狙う。
ホームインは間違いないと感じた私はホーム付近から打者を追いかけ1塁の触塁を確認、2塁付近まで全力疾走。
際どいクロスプレーながらも足が先に入ったのを確認し力強く「セーフ」のジャッジ。
満足のいく審判ができた。
しかし師匠は私のこの動きに首を傾げた。
「2塁付近まで走り、近くで判定をするのは素晴らしい。間近で判定したから正確だし選手も納得できるだろう。ただ2塁走者が3塁とホームを踏んだのを確認したか?もし踏み忘れて守備側から抗議をされたらどうする?2塁に行きたい気持ちも分かるが、ランナーがいる場合は全てのプレーが視界に入る位置にいないといけない」
師匠に注意され私は反論してしまった。
「ベースの踏み忘れはほとんどないし、確認している守備側の選手も少ない。抗議されたら『セーフ』とコールすればいい。それよりも2塁でのクロスプレーの方が選手はシビアになっている」
師匠はすかさず
「レベルの高い選手は審判を見ている。ベースを踏んだか確認してない審判を見たら嘘でもアピールしてくるだろう。その時に審判がどれだけ自信をもって『セーフ』と言っても選手の心に響かない。見ていないものを見たと言うのは選手に失礼だし信頼を失う。例え今回のプレーでホーム付近で全てのプレーを見ていたとしよう。2塁でのクロスプレーを誤って『アウト』と言っても仕方がない。それは審判が見たものを自信をもって判定したからだ。一人制審判で一番やってはいけないこと、それはプレーを見ないことだ」
私はようやく気づいた。
四人制審判では周りでカバーが可能だ。
しかし一人制審判は特殊である。
グランド上に審判は一人しかいない。
そこで最低でも18人の選手を相手にするのだ。
信頼を失ったらどうだろう。
選手は審判の判定に疑問を感じ、試合を楽しめない。
信頼を勝ち取るのは至難の技だ。
しかし信頼を失うのは簡単である。
師匠はそれを私に伝えたかったのだ。
年齢から引退が近い師匠。
現役のうちにたくさんの技術・心得を教えてください。
私が誰よりも師匠のファンです。
また二人で飲みに行きましょう。