今ではほとんどの球場に採用されているラバーフェンス。
ラバーフェンスとはコンクリートフェンスにクッション製のマットを張り、選手の安全を守るフェンスのことである。
このラバーフェンス採用には、熱くも悲しい一人の虎戦士、佐野仙好の物語があった。
1973年のドラフトに1位で阪神に入った佐野と、6位で同じく阪神に入った掛布。
1975年から二人は三塁手のライバルとして熾烈なレギュラー争いを始め、対戦相手が左投手なら佐野、右投手なら掛布。打順は気負いなく打てる8番。
お互いが一番輝ける場を当時の吉田監督は二人に用意した。
練習にしても掛布が5日で新品のバッティング手袋に穴を空けようものなら、佐野は4日で穴を空けた。
佐野が体重を2週間で1キロ上げたら、掛布は2週間で2キロ上げたとまで言われている。
手袋に穴を空けたから上手くなる訳ではないし、体重を上げたから飛距離が簡単に上がる訳ではない。
それでもお互いは何一つ負けたく無かったのだ。
しかし佐野は掛布に敗れた。
スーパースター掛布誕生には、佐野という男は必要不可欠だっただろう。
当時の監督は佐野の技術を、掛布との争いで身につけた闘志を高く評価しレフトというポジションを佐野に与えた。
レフトで花を咲かせた佐野は1985年、当時のライバル掛布と共に日本一になる。
そんな佐野だが1975年4月29日、川崎球場で行われた大洋(現DeNA)戦、悲劇が襲う。
7対6と阪神1点リードで迎えた9回裏1死一塁。
レフトを守っていた佐野は打球を追って、コンクリート製のフェンスへ向かって飛び込む。
頭からフェンスに衝突したのだ。
闘志溢れる佐野は捕球こそしていたが動かない。
ランナーがいるためプレーは続いている。
タッチアップをしていたのだ。
キャッチャー田辺は近くにいたセンター池辺に「早く返球しろ!」とばかりに指示を出すも、池辺は佐野のグラブからボールをとろうとしない。
プレー云々より、佐野の様子が尋常じゃないことから、一刻も早く救急車を呼ぶようジェスチャーしていたのだ。
救急車がグランド内に入り、佐野を搬送する様子を当時のテレビは生中継していた。
とても衝撃的だっただろう。
症状は頭蓋骨陥没骨折。
この事故をきっかけに選手の身を守るため、プロ野球12球団すべての球場のフェンスにラバーを張ることが義務づけられた。
現在佐野は阪神タイガースの総括スカウトとして、選手時代同様、闘志を燃やしながら有望選手を探している。
あなたの根性・情熱・闘志は来世にまで語り継がれるでしょう。
ラバーフェンスを見るたび思い出す。 佐野仙好という男の存在を。
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