1968年12月、野球経験は中学生までの選手がプロ野球ドラフトに出現。
野球経験が中学生までだが、日本中にその名を知らぬ者はいない程の有名人。
名は飯島秀雄。
飯島選手は20歳のとき、当時100m日本記録10.1秒を記録。
24歳で東京オリオンズ(現:千葉ロッテマリーンズ)ドラフト9位にてプロ野球入り。
試合数117
打数0
安打0
犠打0
犠飛0
四死球0
三振0
打率0.000
こんな記録を持ったプロ野球選手(野手)は後にも先にもいない。
それはそうだ。
プロからしたら飯島選手など野球は素人同然。
武器は『足』のみ。
だが注目度は抜群。
まず話題づくりのため飯島選手の足に5000万円の保険をかける。
更には当時の盗塁記録「85」を上回る願いを込め背番号は「88」。
マスコミの注目を一挙に集め、デビュー戦には例年の4倍もの観客が球場に押し寄せた。
飯島選手は期待を裏切らなかった。
プロ野球公式戦デビューは1969年4月13日、vs南海ホークス戦。
3-3で迎えた9回裏無死1塁。
サヨナラ勝ちが期待される場面で飯島選手が代走で出場。
南海ホークスのキャッチャーは、後に監督としても活躍する名捕手の野村克也選手。
飯島選手といえども、簡単には盗塁できないと思われた。
ところが飯島選手は大方の予想を裏切り初球から盗塁を成功させる。
守備が乱れる間に3塁まで進んだ。
その後チームメイトの犠牲フライでホームイン。
飯島選手は初盗塁でサヨナラ勝ちの立役者となったのだ。
その後は徹底マークにあい、なかなか盗塁をさせてもらえない。
1年目→10盗塁
2年目→12盗塁
3年目→1盗塁
得点→46(自分がホームを踏んだ数)
盗塁成功→23
盗塁失敗→17
プロ野球人生をわずか3年間で終えてしまった。
しかし飯島選手が代走で出ると奇妙なことが起きる。
チームの打率が4割を超えるという記録が残っているのだ。
未だ日本プロ野球で打率4割の選手はいない。
あのイチロー選手ですら3割8分7厘が最高だ。
ピッチャーにプレッシャーがかかったのか、チームの士気があがったのか、そのいずれもか。
「代走屋」と呼ばれ、117試合すべてを塁上から出場。
ノムさんこと野村克也さんが執筆した本の中でと
『全てが平均の選手より、何一つ大きな武器を持った選手が好きだ』
このように記している。
飯島選手のみを指している訳ではないだろう。
ただ野球はチームで戦うもの。
一人の欠点を皆でカバーでき、土壇場で代打・代走・リリーフ(投手交代)でその場面に強い選手を出すことができる珍しいスポーツだ。
この特殊性溢れるスポーツだからこそ
『1m65㎝ 70kgの投手vs1m90cm 100kgの打者』
この両者が同じ土俵に立つことができる。
野球はなんて面白いスポーツなんだろう。
裏話
飯島選手はオリンピック後「走ることに携わりたい」という思いがあり、東京オリオンズの走塁コーチとして契約の予定。
しかし本人の知らぬところで選手契約となっていたのだ。
飯島選手はロッテ入団について
「気がついたら辞退できない状況になっていて、あの時は周りの人に怒られたな。なにせ、いきなり陸上選手がプロ野球選手になったんだからね」
このように語っている。
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